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誰かを排除する社会が、自分の居場所を奪うとき―「日本人ファースト」に感じた危機感は排外主義か?

  • 執筆者の写真: ヤス@BUNKAIWA
    ヤス@BUNKAIWA
  • 9月5日
  • 読了時間: 5分

更新日:9月6日

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日本の政治家が「日本人ファースト」という言葉を発するのを耳にしました。それを差別と感じる人もいれば、単なるスローガンと捉える人もいます。その受け取り方の違いに、私は深い戸惑いを覚えました。


私がこの言葉に直感的な嫌悪感を抱いたのは、日本国内で外国人を問題視するような言動が目に見えて増えていることと無関係ではありません。


この記事では、「日本人ファースト」という言葉が持つ危うさについて、私自身の経験と重ねながら考えてみたいと思います。



アメリカで見た「排除の言葉」が生む分断

この言葉を聞いたとき、私の頭に浮かんだのは、アメリカのトランプ大統領が掲げた「Make America Great Again(MAGA)」のスローガンでした。


一見、国を良くしようという前向きなメッセージのようにも聞こえますが、そこには「だから不法移民を排除しよう」という強い意図が込められていました。彼はコロナ禍の際、「チャイナウイルス」という言葉を公の場で使い、それがアジア系アメリカ人への差別と暴力を引き起こしました。


また、「不法移民」への強制送還も加速しました。「税金も払わず……」と、国民の不満を煽りながら。けれど、実際には、多くの不法移民が税金を納め、アメリカ人の子を育て、地域社会に根づいて生活する人も少なくありません。そもそも、アメリカ経済は低賃金での移民労働に支えられている部分もあります。その人々が突然、「共に暮らす人々」から「排除される存在」へと変えられていく現実を、私は肌で感じました。



偏見の正当化が、差別を可視化し、暴力を容認する

強い言葉で「敵」を名指しするリーダーは、社会に分断をもたらします。差別を正当化することで、「差別していい空気」が生まれ、やがてそれは実際の暴力へと変化します。


心理学実験でも、人は「立場」を与えられると、それに沿った行動をとる傾向があることが示されています。看守と囚人に分けた実験では、看守役の被験者が徐々に権力を行使し、暴力的になっていったという事実は、今の社会にも当てはまるでしょう。


差別が社会に溶け込むとき、それは「異質なものを排除せよ」という空気を生み、結果として誰もが安心して暮らせる場を失っていくのです。



「〇〇ファースト」に潜む排他性

「日本人ファースト」と言うとき、そこに含まれる“日本人”とは誰を指すのでしょうか?そして、その定義から外れる人たちとは?


不法移民、留学生、日本に家族がいる人、日本で生まれ育った人、日本で働く人、日本にルーツを持つ人……。どこに線を引くのか。そしてその線を引いた先に、どんな社会が生まれるのか。そこには排他の論理が働いており、「守る」という言葉の裏に「切り捨てる」構造が隠れています。


精神分析家アルノ・グリューンは、社会や文化には人を従順にさせようとする力が働きやすいと述べた上で、次のように語っています。


「不従順な人間であることへの不安が、自分を抑圧者に従わせようとする。私たちは抑圧者の『暴力』や『侮辱』を『愛』と取り違え、その従順さを求める指導者に惹かれてしまう」(アルノ・グリューン著『従順という心の病い』)


社会に根づいた「従順であれ」という無意識の圧力は、個人の中に痛みや怒りを生み出し、それがやがて、異質な他者を排除しようとする衝動へと転化していく。


「排除の論理」は、単なる政策やスローガンにとどまらず、私たち自身の内面の葛藤と密接につながっているのです。



差別は、いずれ“自分ごと”になる

ナチス政権下の体験を語った詩が、よく引き合いに出されます。


「ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。

それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。

それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。

さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。」

ミルトン・マイヤーによる、マルティン・ニーメラーの行動の記述、丸山眞男訳「現代における人間と政治」(1961年)より)


差別や排除は、常に「次の弱者」へと拡大していきます。


アメリカでも、移民政策の強化のあと、女性の中絶権やLGBTQの権利など、さまざまなマイノリティの自由が脅かされました。


初めは他人事に思えた排除の論理が、気づけば自分にも向けられていた。現実に起きているのです。



私たちにできること

「排除」が進む背景には、無知があります。「移民」「女性」「LGBTQ」――。


ひとくくりにされがちな人たちにも、それぞれの物語があります。もし、その一人ひとりに出会い、声を聞くことができたら。もし、その人の生活に思いを馳せることができたら。「社会から排除しよう」とは、きっと思えないはずです。


違いを前提にしながら、共に生きる道を探す。もちろん、そこには共生を可能にするためのルール作りも大切です。そのためには、排除をにおわせる言葉ではなく、安心して議論できる場を持つことが優先されるべきではないでしょうか。


それこそが、社会全体のしなやかさと強さにつながると信じています。だからこそ、私たち一人ひとりが「知ろうとすること」「声を聞こうとすること」から始めていきませんか。



おわりに

私は、アメリカでは移民として、日本では「外側の人」として暮らしてきました。


けれど、「内側」と「外側」という線引きは、本当に明確なものでしょうか。誰かを排除する社会には、真に安全な“内側”など存在しないのかもしれません。


「守る」という言葉が「切り捨てる」ことにすり替わってはいないか。そんな視点を、私たちは持ち続けられるだろうか。


この記事が、ほんの少しでも、立ち止まって考えるきっかけになれば幸いです。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



BUNKAIWA

参照:

選挙戦で話題になった『日本人ファースト』についてを書いたヤフー記事


赤坂憲雄 (2023) 排除の現象学 岩波現代文庫/学術462


アルノ・グリューン (2016) 従順という心の病ー私たちはすでに従順になっている YOBEL, Inc.


映画『es[エス]』ー過去にスタンフォード大学で実際に行われたスタンフォード監獄実験を元にした映画



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