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  • 執筆者の写真ヤス@BUNKAIWA

ハイリーセンシティブパーソン (HSP) がなぜ日本でヒットしたのか。その要因を日本社会のあり方から考えてみた



エレイン・アーロン博士の高感受傾向の人を特集した本『ハイリー・センシティブ・パーソン』の登場により、人の内面的な多様性に注目が向くようになりました。

彼女の本のメッセージに、多くの日本人が「自分もそうかもしれない」という、今までの生きづらさに説明がついたような安心感を覚えたことは間違いないでしょう。


でも、なぜそれが安心感に?


この記事では、『ハイリー・センシティブ・パーソン』のヒットに感じたことをきっかけに、発達障害など周りと違う特徴があることで周囲に馴染めず葛藤を抱える方に対して、生きにくいと感じさせる何かが日本社会にあるのではないかと、わたしの個人的体験談を交えて思ったことを書いてみたいと思います。


『発達障害』や『HSP』は社会不適合やコミュニケーション障害の代名詞ではない

最近、日本在住のクライアントさんと接することが増えたのですが、「わたし発達障害だと思います」、「HSP(ハイリーセンシティブパーソン)です」と自己申請をする方がとても多いことに気がつきました。

実際に発達障害の診断を持つ方もいるものの一様に、具体的な自分の症状を説明するよりも『発達障害』『HSP』の一言が、まるで『不眠症』のような、コミュニケーション障害や社会不適応者の代名詞のように話される方が多いこと。そこに、わたしがアメリカで経験しているやり取りとの違いを感じていたのでした。



『発達障害』とは何か?

そもそも発達障害とは、脳の機能や体の作りなど生まれつき持って生まれた身体的・精神的特徴が原因で社会生活や学校生活を送ることに継続的に支障を持つ障害を総称した言葉。22歳頃までを目処に診断が下されます。

発達障害の中には、一般的に対人コミュニケーションが苦手とされる自閉症やアスペルガー(現在は自閉症スペクトラム障害の一つ)もあれば、注意欠陥が特徴のADDやADHDもあります。しかし中には、それぞれの症状がオーバーラップしていたり、自閉症でも人好きで社交的な人もいれば、ADHDでも集中力がすごい人もおり、発達障害という一つのカテゴリでは括れないほど、多岐に渡る独自の特徴を持つ人がいます。


周囲とは違うものの見方や適応の仕方が合っているため、他の人と同じペースでの環境や状況適応が難かったり、それによる失敗や挫折体験が多かったり、他人とのコミュニケーションに違和を感じやすかったりすることから、低い自己肯定感、不安障害や気分障害を発症しやすいことも指摘されています。

そのため、『発達障害』の一言が「これだ」といった理解には繋がらず、その人の本当の葛藤や困難を理解するには各個人の体験を一つ一つ紐解いていく必要があります。



『ハイリーセンシティブパーソン・HSP』とは何か?

ハイリーセンシティブパーソンとは、高敏感性傾向を持つ人たちのことを表した総称。日常生活に支障をきたすほどの精神障害ではないものの、典型的な人よりも、敏感に物事や感覚を感じとることができるタイプの人たちの傾向を指しています。

アメリカの心理学者のエレイン・アーロン博士の本によって日本にも広く知られるようになりましたが、「気を遣う」「空気を読む」ことを小さい頃から求められて育った日本の文化背景出身者の中には、ハイリーセンシティブパーソンに当てはまる方がとても多いのではないかと感じます。また、感覚過敏からくる高敏感性傾向を持っている場合など、発達障害の方と似た、またはオーバーラップした特徴を持つ方も多いのではないかと感じています。

ハイリーセンシティブ(敏感に他人の気持ちや物事に気付いてしまいやすい)傾向を持つ故に、人付き合いに大きな悩みを抱えやすかったり、何気ない出来事が大きなストレスに感じてしまったり、この傾向を持つ人は、日常生活において生き辛さを抱えやすい点が指摘されています。


自己申請の仕方に感じるアメリカと日本の『発達障害』『HSP』の受け止め方の違い

アメリカの学校・社会環境もまだまだ様々なニーズに応えられるシステムが整っているかといえば、そうとは言い切れません。しかし、一般的に、わたしの関わってきた発達障害やハイリーセンシティブ傾向を持つ方やその家族は、このような特徴や傾向があるからどうすれば良いのか、という感じで具体的な対策案を求める会話が中心に思います。

一方で、日本の方の自己申請には、ただの症状の説明とは違う、何か別のニュアンスが含まれているように感じるのです。

まるで「自分は健常者とは違う」という感じでしょうか。カップルの場合、「パートナーが発達障害だから仕方がない」と夫婦間のコミュニケーション問題をまるでそれが原因の全てのような感じで話す方も。なんとなく、そこに改善への手段がないような、打ち止め感や諦めが潜んでいるように感じてしまうことが多いのです。

そこに対して不思議な違和感がずっとあったのですが、日本の文化や社会背景とあわせると、個々の経験する多様な葛藤に不寛容な社会が見えてきました。


『発達障害』や『ハイリーセンシティブパーソン・HSP』と、名前がつくことへの安心感:ラベリングの効果

思い描くような社交性が持てなかったり、周囲の反応に敏感になってストレスを溜めていたり、どうしても合わない環境があったり。それを日本では「我慢」や「根性」でやりすごそうとさせる精神論が根強いため、自分に鞭を打って生きている方も多いと思います。そして、その基準についていけない人は、まるで全ての原因が自分にあるかのような扱いで責められる。

それらの原因を求めていた人にとって、『発達障害』や『ハイリーセンシティブ』のコンセプトは、原因が自分(意識)以外の体質にあるという、問題が外的化されたような感覚を与えてくれているのかなと感じます。自分の生きづらさに理由がつく感覚は、とても安心します。

そして、ちゃんとした説明出来る病名(症状名)があることによって、周囲に納得してもらいやすかったり、他人・社会からの批判から自分を守るための防御線にもなっている場合もあるのかな、とも思います。

しかしそれがスケープゴートのように、「自分は健常者とは違うんだ」「どうにも変えようがない」と言った諦めに繋がってしまっている人も少なくは無いのではないかと感じるのです。


自分を「健常者」から切り離してしまうものは何なのか?多様なオプションを持たない不柔軟な社会に対する不満と諦め

わたしは中学生の頃、謎の病気(後に低髄液圧症候群と判明)にかかりました。この症状は、本人にはとても辛いものである一方、外から見ると何が起きているのか全く判らない無症状のため、周囲に全く辛さが理解されない苦しさがあります。むしろ、具体的な治療法が無く1日中横になっているだけなので、怠けているように誤解されるとても厄介な病気です。

わたしもその例外ではなく、学校の先生を含む周囲の大人たちの理解を得るまで、かなりの葛藤がありましたし、ネットも発達していない時代、通学出来ない子は不登校になる以外に他のオプションはありませんでした。

原因が分かるまでの長い期間、「甘えだ」とか「学校に行きたくないだけだろう」「それぐらいのことで‥我慢しろ」という推測を前提に周りの大人たちから自分の不登校を否定され、かなりの嫌な思いをしました。病名がわかった時、初めて心の底からの安堵感、自分の症状に対する説明が付くことへの何も言えない安心感を感じたのを覚えています。


でも、この安堵感って、今思い起こすと「自分に何が起きているのかが解明して良かった」というよりも「これで周りに誤解されて色々言われなくて済むようになる」という安心感の方が強かったのですよね。それはまるで、病名と引き換えに、普通の社会生活が出来ない自分を責められないで済む免罪符を得たような感覚に近いと思います。

発達障害やハイリーセンシティブだと伝えてくる人たちの中には、きっと、当時のわたしと同じような気持ちを経験している人も多いのではないかな、と思ったのです。日常が違和感に溢れ苦痛と葛藤して必死に生活しているのに、周囲からの誤解と無理解を常に受けながら過ごすってどれだけのストレスなのだろうか。それを許してくれる唯一の存在が具体的な障害名を持つこと。なんで、日本の社会では、様々な生き方をするためのオプションが少なく、典型的ではない特性や事情を持つ人を理由なしで受け入れることが出来ないんだろう。


その人をその人として受け入れ、それに対して『違い』をどう対処していけばいいのか、そこを考えればいいだけなのではないか。そのためには人と違う進学の仕方、違うオプションで社会生活が送れる人がいても良いのではないか。一度レールを外れると戻るのが難しい日本社会。違いがあることへの厳しさと融通の効かなさに、わたしは大きな疑問と憤りを感じるのでした。


名前が付かないと、認められない多様性。それに対する疑問

わたしは発達障害やハイリーセンシティブは、その人の内面的な『特徴』や『傾向』を表すための言葉だと感じています。そして、その振り幅は体質と同じで大きな振り幅があり、個人の中でも日によって違うものだと思うのです。


もちろん、特徴や傾向の振れ幅によっては、本人や周囲が対策をとったり工夫をして集団生活をしやすいようにすることは大切です。そして、正しい診断のもと適切な専門サービスを受けることが必要な場合もあると思います。しかし、「発達障害」や「ハイリーセンシティブ」の説明がなかったとしても、人とは少し違う特徴や傾向を、その違いをもっと寛容に受け入れることが出来る体制や社会環境があったのなら、どれだけ楽に過ごせる人が増えるでしょうか。


「自分はこういう特徴を傾向があるんだ、だからこういうオプションの方が合っている。」その多様性を認める社会があったら、世の中はどれだけ楽しくて、様々なスキルや考え方の人で溢れたクリエイティブな社会になるだろうか。そして「障害があるから仕方がない」と切り捨て諦めてしまうのではなく、そこに、本人と周囲が効果的なコミュニケーションを生むには何が必要なのか、どのような知識が必要なのか、それを社会全体が考え模索する姿勢を持つことが必要であると思うのです。(というのも、本人は大丈夫でも家族が苦労しているケースもあるので、それについての理解が広がる必要性も念頭に、もっと一般的に支援やサポートをオープンに話せる機会が広がって欲しいと感じます。)


これは、深く掘り下げていくと、精神論で個々の事情を一般化して一方的に判断する社会性、そしてメンタルヘルスに対する社会の無理解にも通じていくのではないかと感じます。そして、その背景には、圧倒的に足りない相互理解のコミュニケーションがあるようにも思います。


ちょっと話が脱線してしまいましたが、『ハイリーセンシティブパーソン』の日本でのヒットから、こんなことを思ったのでした。皆さんはどう感じますか?長くなりましたが、お読みくださりありがとうございます。



クロスカルチャーコンサルタント・BUNKAIWAのヤスでした。

 

参照:


エレイン・アーロン著


この記事を書くきっかけになった、日本でヒットした「ハイリーセンシティブパーソン」を紹介したエレイン・アーロン博士の『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。』今まで無視されてきた、人とは少し違う特徴や傾向を持つ人たちに優しい目が向けられるようになったきかっけの本でしょう。それだけでも、アーロン博士の活動や功績は素晴らしいことだと感じます。



キャロル・クラノウィッツ著


発達障害や感覚統合障害に関する子供達の傾向や特徴をとても詳しく説明した良書。発達障害児や感覚統合障害児を抱える保護者以外にも、学校教育に関わる教育者、心理士、医師、‥職業限らず、全ての大人に読んで欲しい本です。





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